人を理解することが難しいことを自覚する

その見方、間違っていませんか?

 

自分の周りに対する理解、解釈が間違ってるかもしれないと

考えることはないだろうか

 

例えば

「こんなに気を使っているのに あの人は自分のことばかり考えている」

「あの人は分かっていない」

「それくらい分かるでしょ」

「どうしてこれくらいのことができないの」

などなど 

 

こう思うときがあるだろう

 

自分視点が常識という前提にあるから

こう思うことは自然なこと

 

ところが

反対に自分が周りから同じようにそう思われたり

実際に言葉で聞いたらどうだろうか

 

素直に

「はい、そのとおりです」と認めるだろうか

 

腹が立ったり

不快になったり

言い返したり

感情的になったりしないだろうか

 

或いは

「自分はそうじゃない」と

いろいろと言葉を並べて正当化しようとしないだろうか

 

相手が間違っていると思うこともあるだろう

 

それだけでも

人間関係が悪くなることがあり得る

 

その小さな積み重ねが大きな問題になることもあり得る

 

なぜ

だれもが自分の視点すべてが一般常識、正しいと思うのだろうか

 

例えば

社会問題にもなっている「パワハラ」について考えてみよう

 

なぜ

人間社会のなかで、「パワハラ」は起きるのか

 

少し考えてみてみよう

 

・・・・・・・・・・・

 

パワハラしている本人はパワハラと思って言動、行動しているだろうか

 

おそらくそう思っていないだろう

 

その人の基準(当たり前のこと)だから無自覚

 

ところが

パワハラされている側にとっては

当然ながらそれは非常識と思っているはず

 

もちろん

パワハラは人格否定することだから

あってはならないこと(人権侵害)

 

それが誰もが考える「常識」

 

もしかしたら

パワハラしている当人でさえ

そう思っていることだろう

 

この見方は

「いじめ」や「セクハラ」も同様

 

これらは極端な例だから

自分はしていないから大丈夫と思っているかもしれない

つまり

「他人事(ひとごと)」

 

誰もが「自分事」とならない限り意識することもない

 

さらに言えば

意識しても自分の「思い込み」に気づけるかどうか

 

そこがストコーマ(心理的盲点)

 

このように日常のあらゆる場面を人はどう捉えているか

 

人は意識しなければ

自分事が一番の関心事であり

相手を理解することより相手に理解されようする

 

相手のことを理解しているのであれば

上記の「あの人は分かっていない

それくらい分かるでしょう」とは思うことはない

 

それらの言葉は「自分を先に理解しろ」と言っているようなもの

 

それは相手もしかり

 

このように相手を理解することはとても難しいこと

 

理解したつもりで自分の基準で理解している

 

この世の中に現実を現実のまま捉えられる人は皆無に等しい

 

当たり前と言えば当たり前

 

必ず自分のフィルターを通してしかみれないから

 

その「人間の当たり前視点」が

あらゆる人間関係を難しくする原因となっている

 

まず

この人間の無意識な捉え方を自覚して

受け入れることだ

 

つまり

自分の視点と相手の視点に対して

いいも悪いもなく、常識や考え方、抱く気持ちの違いが

人それぞれあるということ

 

人は自分の感情や身体感覚つまり体を切り離すことなく

いろんな事象を見ている

 

人の視点の数だけ感情や身体感覚、取り巻く環境がある

 

物事を捉えるのに

感情や身体感覚を切り離すということはあり得ない

 

通常は客観的に見ることはできない

 

しかし

必要なのは、実は客観的でなく相対的

 

相対的」とは主観的でありながらも

自分と相手の感情や身体感覚を含めた知性や情報で

その事象を捉えたもの

 

まさに

感情や身体感覚を置いてきぼりにすることで

苦しんでいるのが今の人間模様となっている

 

自分の気持ちと切り離して

相手の気持ちにどれだけ寄り添って見れるか

 

自分視点がよりよい関係、

りよい未来を阻んでいることに気づくこと

 

そうはいっても

その時になれば

たいてい自分の感情が先立つ

 

それでは、実際にどうすればいいだろうか・・・