努力することは楽しむこと?

努力するのは嫌い?

 

努力するのは苦しみ、耐え抜くものだと

どのくらいの人がそう思っているだろう

 

昔から、「苦労は買ってでもせよ」と言うが・・・

 

子供の頃から

「報われるためには努力すること」と教えられる

或いは

努力すれば報わるからと教えられる

 

要は

「相応の代償を払え」

「進んで前払いせよ」ということ

 

いずれにせよ

 

これらの考え方では「努力=苦労」というイメージとなる

 

人間の本能として

何事もより少ない努力で済ましたい欲求がある

 

つまり

「苦痛を避けたい」という欲求

 

自ら望んで努力することはできるだけ避けたいもの

 

そういう人をみると

苦痛に感じることがある

 

自分の状況に照らし合わせて

自分がやっていないことに

ある種の痛み、妬みみたいなもの

 

しかし一方で

努力している人を見ると

何かしらの感情が湧く

 

それは

気持ちいいもののはず

 

元気になる

 

影響を受ける

 

そうであっても

その人のその時のコンテクストにもよる

 

いずれにせよ

精神状態が保っていれば

自分も努力して何かを得たい、成し遂げたい

という思いがあるだろう

 

同時にそれは自分の能力を高めることにもなる

 

しかし

「理想と現実のギャップ」のあまりの違いに

いつしか諦めてしまう

 

身近なところで

ダイエットにするにしても

資格と取るにしても

レベルが高くなればなるほど

費やす時間が多くなるため

すぐ得られないものであるほど

「苦痛を避けたい」という欲求が勝って諦めるのが早くなる

 

そうなると

面倒なものを避け

今の能力でより「楽に」「簡単に」できるものに目が行ってしまう

 

この欲求は人間の進化論的にも説明できる

 

今日を生きていくのがやっとの暮らしであれば

10年先はもちろん一年後のことを考えたって意味がないと思うだろう

 

石器時代はもちろん江戸時代でも

感染症など危険が大きい幼少期を無事に乗り越えても

ほとんどが30代か40代で亡くなっている

 

50歳を超えた例はわずか

 

子供を産んだら死んでいくという過酷な環境では

「今この瞬間の快楽を最大化する」のが最適な生き方となる

 

しかし

文明の発達とともに寿命は飛躍的に延びて

いまでは元気な100歳も珍しくない

 

長寿社会では短命社会とは逆に

「目先のことに捉われず先のことを考える」人生設計が必要となる

 

進化の過程で人間の脳には

このような仕組みを組み込まれていない

 

だから

努力(将来)よりも日々の「瞬間の快楽」の誘惑に負けてしまう

 

さらに

今はインスタント社会と言われるとおり

何でもリモコン一つで操作可能になっている

 

つまり

人間を怠惰にさせるものが身近なところに溢れている

 

敢えて言えば

昔比べてより豊かになることが果たして本当にいいことか

 

要は

便利になった分

楽になった分の短縮した時間を何に使っているかだ

 

ますます便利になって楽になれば

ますます動くことも

考えることもしなくなる

 

人生で最も大切な資源である「時間」を

さらに無駄にすることにもなる

 

そんな努力することを

楽しめるようにしていこう

 

前提として「努力する」とは

「人から見れば苦痛なことを自然体で当たり前のようにやっていくこと」

 

つまり

やっている本人にとっては努力していると

感じていないようにすること

 

矛盾していると思うかもしれない

 

努力することは

決して、苦しみ、耐え抜いてとかではない

 

目標達成には持続性が大切だから

精神論や根性論で続けても絶対に続かない

 

典型的なやり方として

無理やりモチベーション(やる気)を上げてから

自分を動かそうとする

 

そもそもモチベーションは

無理に上げようとしても上がるものではない

 

自然に上がるもの

 

上がらないものを上げようとすることこそ

かなりの苦痛を感じたり

反対にモチベーションを下げてしまう

 

それでは

楽しめるようにするには何が必要か

 

もちろん

努力に苦痛が全くないというわけでもない

 

そうであってもやろうとする意欲を失わず

努力し続けるにはどうすればいいだろうか

 

一つのヒントとして

「報われるから努力する」という「アメとムチの関係性」にしないこと

(もちろん、他にもいろいろとある)