流れのままに任せていませんか?

「歴史は繰り返す」とはよく聞かれること

 

一般的には社会という大きな括りで表現してもの

 

しかし自身としては

社会は同じ過ちを犯すという表現のほうがはしっくりくる

 

これは

ひとりの人間として考えても同じ

 

なぜ

人は同じ過ちを犯すのだろうか

 

だれもが心の中で人は過ちを犯すものと思っていませんか

 

もちろん

完璧な人間は存在しない

 

とはいえ

修正可能な過ちならまだしも

修正不可能な過ちはしたくないだろう

 

今のままで何とかなっている限り

たいていは自ら行動を変えようとはしないもの

 

いつも有事(問題、悩み)が起きてからの

対応に追われることが多くはないですか

 

まさに

それが「歴史は繰り返す」

 

傷め目に遭って自分自身の愚かさを知る経験は

大小あれど誰もが身に覚えのあるものではないですか

 

そうは言っても

痛い目に遭いたいとは思わないはず

 

そういう経験を踏まずとも

自分の人生をよりよく流れを変えられるよう

どうすればいいかをひとつ考えてみよう

 

アメリカの精神科医である

エリック・バーンが提唱している「人生脚本」をご存知だろうか

 

幼少期に自分自身の人生脚本を描き

その通りになるとされている

 

人生脚本の大部分は親からのメッセージ

(しつけや教育、考え方、行為など)により決定される

 

無意識のうちに生き方を決め

それに従い行動するということ

 

つまり

子供のころからそのときの環境の力によって

敷かれたレールに乗り続ける

 

しかし

脚本は書き換え可能ということを知らないだけ

 

とはいえ

無意識に形成される人生脚本を書き換えるのは

容易なことではない

 

よりよいほうへ乗り換えたいと思っても

そうなる確証がない限り

年月が経つにつれて

今の自分のできることで

無意識に限界を設けて

子供時代から慣れた考え方や行為を踏襲するしかしなくなる

 

その典型として

できるだけ失敗をしない

損をしない

間違いをしない

周りから批判(お叱り)を受けない人生を歩むこと

 

それも一つの人生だが

それで問題や悩みがなくなることはない

 

むしろ

同じ過ちを繰り返す可能性のほうが大きい

 

なぜなら

問題解決する能力や対応力を向上させる機会と経験を

すべて自らの選択で失くしているからだ

 

そもそも人間は幸福を感じる以上に

安心で安全のなか(現状維持)で過ごしたいもの

 

しかし

現実の社会は複雑で曖昧なことだらけ

 

完全に良い人間か

完全に悪い人間かのどちらかに

分かれることもなく

心には思っても表に出さない考えや

何かしらの誰にも言えない秘密を持っているもの

 

自ら行動を起こせば必ず何か間接的にせよ

その場限りでは終わらない予期せぬ反応が

起きて思い通りにならず

そのうえで

自分のことを認めてもらえるようなこともほとんどなければ

流れに任せたほうが無理に苦しまずに済む

 

それに加え

人生の目標が明確になっている人はほとんどなく

たいていはその場しのぎで対処するしかなく

どうすればいいか知らない、分からない、やったことがないものを

明確に説明できることなどできない

 

だから

「明確さ」のある「誰か」に或いは「何か」に

多くの人が影響を受けやすい

 

そして

誰もがその明確さに疑問を持つことなく

自分を引き上げてもらいたい

よりよくしてもらいたい

背中を押してもらいたいと思っている

 

自ら率先して行動を起こすための

「明確さ」がわからないのが問題である

 

流れのままになるのは

人間の性として防衛本能が常に先に強く働くから

 

それらを踏まえて

「明確さ」とは何だろうか

 

どうなるか分からない将来に何が必要だろうか

 

それは「目的」

 

目的を持って始めること

 

何のためにそれをやるのかを考えること

 

そして

初心(目的)を忘れないようにすること

 

忘れないようにするための方法のひとつとして

自分にとっての心の拠り所

(家族、かつての先生、名言、歴史上の人物など)持つこと

 

 

人は自分のためより

誰かのため(何かのために)にやったほうが能力を発揮する

 

とはいえ

その時々の能力に限界はあるから

自ら流れを変えることで

目的を見失わすような想定外や不確実性が起こり得る

 

最悪な状況に陥らないようにするためにも

リスクマネジメント(危機管理)も必要だろう

 

そのための事前の

予測準備と事後対応力(応急処置力)の両面を高めておくこと

 

これらは一朝一夕で一できるようなものではない

 

日常から取り組めるような環境

(人の協力が得られる人間関係構築など)を整えること

 

それでも

それなりの痛い目に遭う可能性はゼロにはできない

 

最後は

そのときの経験にどう反応するかという

自分自身や周りに示す「態度」

 

たとえば

痛い目に遭った時でも前に進もうとするか

そのまま投げやりになるかは

自分で意味づけを変えられるし自分で選択できる

 

そんな柔軟な心と考え方を持てるようにしておくことは

良い人間関係を構築していくうえでも大切こと

 

流れのままに任せるとは

自分の選択能力を自分以外に譲っていることになる

 

それで

あなたは充実した日々を送れますか

経済学からの視点と現実との乖離

これからはグローバリズム社会とささやかれて

随分と年月が経つ

 

グローバリズムとは

地球を一つの共同体と見なして

世界の一体化(グローバリゼーション)を進める思想

 

その思想を推し進めるために

規制緩和構造改革が正当化されている

 

結果的に自由貿易規制緩和

緊縮財政というグローバリズムの三大政策パッケージが推進されて

一部の人は確かに儲かっているが

多くの国民が所得を増やせずに

国内の格差が拡大して

社会が不安定化しているのが現実

 

そして

「デフレ」による国民の貧困化

 

なぜ日本がデフレから脱却できないのか

 

なぜ一部の投資家とか

一部の企業だけが絶対に儲かるような規制緩和が行われ

社会が不安定化していくのか

 

そもそもの根底として

学問である「経済学」が間違っているということを

ご存じだろうか

 

まず何をベースに経済学が成り立っていると思いますか

 

「経済人」をベースとしているが

その経済人とは経済合理性のみを追求する人間

 

必ず合理的に動くという前提となっている

 

しかも

経済人は市場で情報を共有している

製品の情報とかサービスの情報とか価格情報を

みんながすべて知っている

 

そういう状況でフェアに競争して

買ったり売ったり

財やサービスの取引をしている

 

そうすることによって

効用の最大化されるというのが経済学

 

効用とは何かと言えば

モノやサービスに対する欲求を満たせるかどうかを

判断基準にして測られるもの

 

つまり市場において

経済合理性以外の価値観をもたない「経済人」が

情報を均等に共有し

フェアに市場で取引すると

モノやサービスが欲しい人々の欲求が満たされ

社会全体の効用が最大化されるということ

 

しかし

経済を良くも悪くもするのは

感情、心がある人間をベースに考えるべきもの

 

存在しえない経済人をベースにすることがおかしな話

 

人間というのは

いろいろな価値観、考え方のなかで

情動による不合理な行為をしてしまうこともある

 

人間は経済合理性のためのみに生きているわけではない

 

しかし

経済学の数式のモデルを作るときに

経済活動に参加している人が

いろんな価値観を持ったら都合が悪くなる

 

数式のモデルを作れなくなるから

 

だから

情報が均等に与えられる経済人という

架空の人間を設定している

 

情報が均等なんて絶対にありえないのに

情報が均等に共有されるということにして

市場で自由にフェアに取引をすると仮定する

 

すると

効用が最大化されると

 

それに基づいてモデルを作りましょうという

そういう前提で経済学が成り立っている

 

はなから前提が間違っているから

経済学が現実を説明できないのは当たり前

 

現実を説明する学問じゃないのが「経済学」

 

だから

人間の心理をベースにして意思決定を行われる理論である

新しい行動経済学という分野が登場している

 

ということで

 

まず報道やネット記事など現実の世界で

経済の話をする経済評論家さんたちは

どんな前提で話をしているかどうかで

意図を読み解いてみよう

 

恥ずかしながら

自身も学生時代は

経済学部経済学科を専攻していた

 

ほとんど勉強した記憶がないので

この歳(50歳くらい)になるまで

全然知らなかった

 

今現在のほうがよっぽど

経済の仕組み

金融、財政について理解できるようになった

 

まだまだ知識不足は否めないが

今学んでいることが「なるほど」と思えることばかり

 

これも前提を知らないと

社会の仕組みが真に理解できないということ

 

あなたは「経済学」で未来予測できると思っていますか・・・

数字だけがすべてではない・・・?

統計分析力は苦手な人も多いだろうし

自身もその一人

 

それでも数字を見る力は

日常の問題解決にも

意思決定にも

物事、世の中の評価判断にも

大きな要素となり得る

 

ただ

「数字だけがすべてではない」

 

数字では理解できない見えない部分がある

 

例えば

人間は感情で行動するから

合理的に理屈通りに動くとは限らない

 

実際のその場の文脈も多様に変化する

 

そういう前提としてとらえておこう

 

ある本の一節

 

『数字の裏にある現実

 たとえば人々の生活を見せてくれるデータなら

 喜んで取り入れるということだけだ

 仮説を検証するためにデータは必要だが

 仮説をどこからひらめくかというと

 人と話したり、話を聞いたり、観察したりすることからだ

 世の中を理解するのに数字は欠かせないけれど

 数字いじりだけで引き出された結論は

 疑ってかかったほうがいい

 

 1994年から2004年まで

 モザンビークの首相を務めた

 パスコアル・モクンビは

 2002年にストックホルムを訪れ

 モザンビークが急激な経済発展を遂げていると教えてくれた

 

 どうしてそう断言できるのですかと尋ねてみた

 

 モザンビークの経済統計はあまりあてにならなかったからだ

 

 一人当たりのGDPがわかるんだろうか?

 

 「もちろん 数字は見ているよ」と首相は言う

 

 「でも 数字が間違っていることもある

 だから毎年メイデーのお祭りをしっかりと観察することにしたのさ

 モザンビーク最大のお祭りだからね

 

 市民の足元を見て

 どんな靴を履いているかを観察するんだ

 

 お祭りの日には

 みんなめかし込んで出かける

 

 友だちの靴を借りたりできない

 

 友だちもおしゃれしれして祭りに繰り出すからね

 

 だからいつもじっと足元を見てるんだ

 

 裸足か ボロ靴か

 それともいい靴を履いているか

 

 それで前の年と比べてみる

 

 国中を回るときにも建築現場を見る

 

 新しい土台に雑草が生えていたら

 よくないしるしだ

 

 どんどんレンガが積みあがっていたら

 カネを投資に回す余裕があるとわかる

 

 日々の暮らしに使う以上のカネがあるってことだ」

 

 賢い首相は数字も見るけれど

 それ以外のことも観察している

 

 人類の進歩の中でもいちばん価値のある大切なものは

 もちろん数字だけでは測れない

 

 病に苦しむ人の数は推測できる

 

 暮らしがどれほど豊になっているかも

 数字で図ることができる

 

 だが

 経済発展の最終的な目的は個人の自由だし

 それはなかなか数字で表せない

 

 人類の進歩を数字で表すという考え方そのものが変だと

 感じる人も多い

 

 わたしもそう思う

 

 この世の人生のすべての機微を数字に表わすことなんて

 絶対にできない

 

 数字がなければ世の中は理解できない

 でも数字だけでは世の中はわからない』

 

ここまででわかるとおり

前提をしっかりと理解しておこう

 

どれだけ国を動かす人が

こういう考え方のもとでやっているか

 

諮問会議内、専門家や官僚の話の信用性が

絶対的なものかということ

 

今の日本経済は

株高だけで

インフレ率だけで

マネタリーベースだけで

完全雇用率だけで

理解できるものですか

 

どれだけその地域の隅々(現場)を

実際に見聞き観察して

理解しようとしてますか

 

一部の良い部分(数字)だけが一人歩きしていることもある

 

あるいは

利害関係、保身や自分の実績のために

意図したものに誘導させられていることもある

 

国民の豊かさは一部の人で測るものではないのは

誰もがわかることだが

知らないことをいいことに

情報を握っている側の操作で

いくらでもどうにでもなるということ

 

しかも

すでに発信する側の信頼性が

担保されていることさえ利用している

 

もう一つ別のある本の一節

 

『やがて国の委員会が開かれ

 著者もその一部に参加していたが

 その時にはすでに学者の間のコンセンサスは形成されていた

 

 著者は

 「理論的にも、現実的にも分別リサイクルは

 資源の無駄使いになり

 結局リサイクルはできないから廃棄物貯蔵所の問題も起こる

 それに分別は時間的にも国民に負担を強いる」と頑張った

 

 その時

 休憩時間にトイレに行くと

 隣にいた東大教授が

 「先生 頑張らなくても良いのですよ

 どうせ ゴミを分別するのは主婦や老人ですし

 暇なんですから」と言った

 

 これには著者も開いた口がふさがらなかったが

 実は当時の国の中枢の考え方は

 「どうせ主婦と老人は暇」が前提だった

 

 また1990年代は

 「今まで浪費しすぎた 反省しなければ』という

 節約ムードが社会を覆っていた

 

 エコと言えば何でも通る社会だった

 

 それまで家電製品を「三種の神器」などと

 表現していたメディアも態度をくるっと変えて

 「消費は悪」と言い始めた

 

 そんな時

 大都市では全国のトップを切って

 名古屋が分別リサイクルを始めたので

 名古屋市は混乱した

 

 働いている主婦はどうにもならなくなり

 ゴミを捨てられないので

 一時的に冷蔵庫で保存したり

 捨てられないものをキャベツの葉にくるんで捨てた

 

 市民が苦しんでいるのが報道されたとき

 当時リサイクルに指導的立場をとっていた

 慶応大学の教授は新聞紙上で

 「市民は苦しめば良い 苦しまなければ消費の癖は直らない」という

 趣旨の発言をしている

 

 本当に分別リサイクルが資源を節約し

 環境を改善するなら

 まだこのような意見にも一理はあるが

 かえって資源を無駄使いするようなことを

 正義のように言うのだから

 ずいぶん奇妙な時代だったものである

 

 それに加えて

 行政とか学問というのは

 人間や国民がより幸福になることを目指しているもので

 「苦しんだほうが良い」などと言うなら

 市の行政サービスもやめたほうが良いともいえる』

 

どうですか

 

教授に対してどうこう言いたいわけではない

 

中枢だろうと

ミクロ(個人的な思想、EQが低い、ご自身の利益)のなかの話し合いで

マクロ(国全体の方向性、幸福)を決めてるということ

 

そういう前提を十分に理解したうえで

世の中、社会、経済、世界情勢、政治、外交などなど

教養に対して関心を持って

日頃から少しずつ自分で考えるなり

身近な人と共通認識を持っておこう

 

なんとなく情報をインプットすることから

自ら思考判断評価する意識で

情報をインプットできるように少しずつなっていこう

 

あなた自身と身近な人の

社会に対する意識を高めておこう

 

これも日常でできる社会貢献のひとつだと思っている

 

その前提としては

「健全な心」を保ったうえでの話

 

これがなければ

理性、意識を高めても社会はよくならない

 

自身も学んだなかで考え方を改めた

 

ただその学んだ前提が正しいかどうかも

さらに学ぶ必要もあるだろう

 

あなたは心穏やかにしてから

世の中や物事を捉えようとしていますか

あなた自身の人間性に目を向けてみよう

日常生活において人間関係で悩むことがありませんか

 

日々接する人のことは理解しているはずなのに

なぜ悩むことがあるのだろうか

 

なぜ人に不満を持つことがあるのだろうか

 

家族関係

職場でも上司との関係

同僚との関係

後輩との関係でもうまくいく人いかない人の違いは何でしょうか?

 

日々接している人のことは理解していると思っているはず

 

それなのに

状況によっては嫌なことを言われる

厳しいことを言われる

 

理解してもらえてない不快な思い

 

そんな不快な感情を我慢することはありませんか

 

あるいは

言いたいことを言えない関係性になっていませんか

 

主張できず、意見できず言いなりになっていませんか

 

したくもないことを頼まれても

関係性を悪くしたくないために断れない自分になっていませんか

 

そういう自分にとっては

原因は相手にあるのだろうか

 

相手がもっと気遣いがないと

相手が変わらないと

相手が自分を理解していないと

口には出さずとも「心の中」で思っていませんか

 

それとも

その相手がいないところで

他の人にその不満の数々を言っていませんか

 

それで心(不快な気持ち)を静めていませんか

 

いわゆる

「愚痴」と言われるもの

 

日常で起こり得る不快な気持ちを我慢したり

愚痴を吐きだしたりして

たいていは自分の立場(心)を守るだけに集中してまうもの

 

しかし

誰もがお分りのことだとは思うが

そんな応急処置的なものを繰り返しても

相手のほうから歩み寄ってくることはない

 

良い人間関係は幸福をもたらすものだが

悪い人間関係は不幸をもたらす

 

人間関係における本当の問題は何だろうか

 

日々を幸福に暮らすための大きな要因として

一つ考えてみよう

 

まず

そもそも人間関係は自然に円滑に

そしてスムーズに築かれるものだろうか

 

どんな人間関係であれ

信頼関係が築かれるまでの「順序」と「プロセス」がある

 

つまり

関係性に先立つものは、自分自身の人間性

 

人間関係づくりに最も大切な要素は

自分自身はどういう人間であるのかということ

 

関係を築き始めるべきところは

まず自分の人間性を磨くことから始めよう

 

その人間性の基本は

自制と自己のコントロールができるようになって

初めて他人との充実した関係が築かれるもの

 

実際のところはそれがなくても

条件や環境によっては

ある程度の人間関係は築かれることだろう

 

しかし

困難が訪れたとき(大小あれどたいていどこかで訪れるもの)

その土台がなければ簡単に人間関係が崩壊する

 

といっても

完璧な人格を目指しましょうと言いたいわけではない

 

良い人間関係の構築は「日々」の信頼ある行為の積み重ねのうえだから

 

その信頼ある行為の積み重ねが人間性を磨くということ

 

それなしに

自分の要望や頼み事ばかりを気持ちよく聞いてくれることはないだろう

 

その行為のひとつとして「誠実さ」を示すことだ

 

「誠実さ」とは言葉を行為に合わせること

 

誠実さを示す方法のひとつは

その場にいない人対して誠実になること

 

たとえば

自分と相手と二人で

その場にいない人に対する不満を言っているとしよう

 

次に

その二人の間に何か問題が起きたとき

二人の関係はどういうものになるだろうか

 

自分が相手の不満を他の誰かに言っている姿を

容易に想像できないだろうか

 

自分がどういう人間なのか

相手はすでに知っているからだ

 

相手とは面と向かっているときは話を合わせ

背を向けたらその相手の不満を言う人に

信頼関係が築けるだろうか

 

誠実さとは簡単に言えば

すべての人々に対して原則に沿って平等に接すること

 

それを地道に続けることで

相手との信頼関係のプロセスを経ていくことだ

 

しかし

誠実さゆえに

意見の衝突や不快な状況に陥ることもあるだろう

 

そのために多くの人は

最も抵抗の少ない道を選び

人の陰口に言い

秘密をもらし

他人の噂話に興じてしまう

 

 

そのうえで

もうひとつプロセスに大切なことがある

 

人間性を磨くのはそう簡単ではないだけに

私自身はこれがもっとも大切なことと考えているが

「自分の内面(心)を育てる」ことだ

 

そのひとつとして

「自分の弱さ」を素直に認めるようになること

 

そして

日常で自分の弱さをさらけ出せるようになること

 

これは心の安定性にとても役立つ

 

たとえば

不快で不都合な状況でも

「私は間違っていました」とか

「私にはできません 苦手です」と

素早く心から謝ったり認めたりするのと

 

相手の間違いや欠点を探し出し

それを自分自身の言い訳に仕立てようとするのでは

どちらが良い人間関係につながるだろうか

 

当然のごとく

前者が相手に対する信頼回復や継続につながるのと同時に

自分の心がとても楽に感じられるようになる

 

良い人間関係の構築は先立つもの(人格形成)があってのことであり

実際の行為のプロセスがあってのもの

 

相手に原因を求める前に

自分の人間性に目を向けてみよう

自分の世界観は正しい前提で物事を捉えていませんか?

あなたの世界観がすべてではないことは

理解できることだろう

 

世の中

自分より世界観が広い人も数多くいる

 

しかし

世界観とは

自分の考え方や価値観、視点、目的等々

独自の理性の部分を介したものだから

 

そこにエゴを含めた感情が加わる

 

客観的に見ているとしても

必ずあなたのそういったフィルターを通したものとなっている

 

意識しなければ気づくこともないだろう

 

今までの培った知識や情報が

間違ったままなら

さらに気づかないまま

あらゆる事象を捉えて評価判断してしまう

 

自分の考え方を否定されれば

不快な情動によって

自分自身の固定観念のとらわれ

視野を狭くして

自分の立場を守ることに終始する

 

しかし

心が安定しているときに

自分で自分を否定することに

何ら不快な情動は起きないはず

 

だから日頃から

今の自分自身に疑問を持つこと

 

前提という

今の自分の知識力と考え方が間違っていないかどうか

 

加えて

今の選択に対するエラーは何か

(つまりトレードオフは何か)

 

不快な情動が起きれば

そのときはもう気づくのも難しいから

その前とその後に気づけるような意識を持とう

 

そのときは仕方ない

 

受け入れることだ

 

ここで書いてることもそう

 

ここに書いていることが

正しいとは限らないという前提で

あなた自身でしっかりと思考錯誤すること

 

自分自身にも世界観がある

 

だから

その世界観を常にアップデートするようにしている

 

そのための日々の情報や知識のインプットは欠かせない

 

日々いろいろな分野の本を読むが

専門家はその分野にはとても勉強になるが

他の分野の話や考え方や人となりとなると疑問を持つことが多いし

前提が間違っているのではないかと思われることも多い

 

科学に深い人は基本

経済の話に対しては?に思うことがあるとか

 

経済に詳しい人が

科学のエビデンスを理解していないと思うこともあるとか

 

評論家、ジャーナリストも同様

 

もちろん

知識量はとても豊富な人は多いが

どこか基礎知識が抜けているところが必ずある

 

自身のメンターもそういうところがある

 

もしかしたら

それは知っていてそう言っているのかもしれない

うがった見方もできるかもしれない

 

しかし

それは当たり前のことで

すべてを網羅している人はほぼ皆無だろうし

上述した人たちもビジネスという観点でそうしているのかもしれない

 

だからこそ

何事も鵜呑みにしないような意識づけはとても大切

 

一つ例を出すと

ある本の一節

 

『御用学者とは権力におもねる学者という意味ですが

    読者のなかには「まさか、偉い学者が権力に媚びて

   故意に嘘をつくはずがない」と

   思っておられる方がいるかもしれません

   しかし残念ながら

  「権力から独立して自分の意見を貫ける学者」というのは

   日本では極めて少ないというのが私の印象です』

 

これは人間である限り、海外でも同じことはあり得ることだろう

 

お金と権威(自己重要感)は人間のエゴの大好物だから

 

しかし

その人がどうこう言いたいわけではなく

そういう前提のもとでインプットを日々アップデートしていこう

 

インプットしても

感情で否定するような心の状態で

捉えようとすることは避けよう

 

ご自身のよりよい未来のために

ブレない自分軸を保つ意識を持とう

去年一年

よりよい活動は続けられてきたでしょうか

 

周りに良い影響を与えてきたでしょうか

 

身近な人の中に

何かよい変化が起きた人はいないでしょうか

 

そうであれば

あなたのより良い活動、行為によって

良い影響が及んでいるかもしれない

 

それがなくとも

あなた自身がよりよく変化したなら

心の安定がもたらされ

意欲を失っていなければ

確実に心が育っていることになる

 

つまり

人の目や声に流されない

情動よりも受け入れる体勢が整っていることになる

 

それがブレない自分軸となっていく

 

最初は意識のうえで

自己をコントロールする必要があるかもしれないが

ブレない自分軸ができてくると

よりよい行為が自然なもの、当たり前のものとなる

 

その状態が維持できれば

誰もがやった方がいいと思ってもなかなかやらない

或いはやれたとしても続かないことを

当たり前のようにやっていることになるので

人より基準が確実に上がっていることになる

 

しかし

たとえば人から

それが「きれいごと」と思われていることかもしれない

 

それが「無駄なこと」と思われていることかもしれない

 

それが「ストイック」と思われていることかもしれない

 

それが「嫌み、妬み」で思われていることかもしれない

 

それが「くそ真面目」と思われていることかもしれない

 

それが「努力しても報われない」と思われていることかもしれない

 

というように

人にとって「苦痛、自分はやりたくない」と思われていることを

それでもあなたにとっては

「大切な価値観」「自分との約束事」として

人の目や声を気にせずに

この一年やり通せたことになる

 

それが自然にできるようになったら

不快な情動が起こらないので

人の声や目は全く気にならなくなる

 

といっても

人の声や目を無視しているものでもなく

人はそう思っているんだ程度にしか思わなくなる

 

そうなれば人に対する見方も不快な情動がない分

そう思われている人に対して

穏やかな心で接することができる

 

ただ

そこまで行き着く心の状態は

環境や人の性格、能力によって

レベルの高低

身につく遅早の差があるだろう

 

だからこそ

その過程(心の訓練)で

感情に流されない

振り回されないように

心の術を身につけていこう

 

それがあなたが最も社会に貢献できる一つの方法であり

日々幸福を感じられる「良い人間関係」にもつながる

 

どこの世界でも「結果がすべて」と言われるだけに

小さな労力で大きな結果、成果が求められる

 

結果があってのプロセスなのか

 

プロセスがあっての結果なのか

 

どっちにしろ

片方を求めるものでもなく

不可分できないもの

 

結果という早さ(認められ度)を重視するなら

あなたは不幸も幸福も味わうことができる

 

プロセスという長さ(心)を重視するなら

あなたは日々幸福を感じられるようになる

 

もちろん前提となるのは

あなた自身の心をコントロールできるようになること

 

どちらを選択するかはあなた自身が決めること

 

もちろん

両方を求めることもできるかもしれないから

それもあなた次第

(運の要素も大きいものだろう)

 

本年もよろしくお願い申し上げます

 

 

それって、プロセス経てますか?

 誰もが生まれたときから

望む環境にいられることはめったにないことだろう

 

それでも

誰もが羨む幸福な環境にいながら

人生をダメにする人もいれば

環境が悪くてもそこから這い上がって

羨む幸福な人生を送る人もいる

 

その違いは何だと思いますか?

 

運?

 

能力?

 

人生を歩むうえで

何をもって幸福としますか

 

そして

何が必要か

 

ひとつ考えてみよう

 

大数の法則」をご存知だろうか

 

たいてい

人は自分の成功体験を「少数の法則」で捉ている

 

ひとつ、ふたつの成功体験を

一般化(みんなに通じるもの、正しいこと)する

 

もちろん

普遍的なもの、原則てきなものに基づいたものは変わることはないが・・・

 

しかし

それを偶然か実力かという原因を考えることあるだろうか

 

長い人生においてはサイコロを振るのと同じ

 

5回振って1の目が連続して5回も出ることもあるが

1000回、2000回と回数が多くなれば多くなるほど

確率どおりの1/6となる

 

ちなみにこれを統計学で「平均への回帰」という

 

これと同じで

自分の成功体験が人生全般に通じるものだとは限らないということ

 

当たり前のように自分自身は年月が経てば

想定外のことも含めて「できること」と「できないこと」も変化する

 

それとは関係なく

環境自体も否応なく変化していく

 

運が良くてもそれに固執すれば

その運もどこかで悪くなっていくということ

 

それに人生そのものは直線的に右肩上がりに

自分にとって都合よくいくことばかりではない

 

人間には感情によって行動する限り

人生そのものは「ぐにゃぐにゃで紆余曲折」というのが自然な人生

 

もちろん

人によって程度の差はある

 

いいときもあれば、悪いときもあるし

苦痛の程度が我慢できるものであればその環境に慣れるもの

 

そして

経験のうえで自分にとっての楽しみも見つけるもの

 

そういう経験(快楽と苦痛という感情)の総計で

たいていは幸福な人生を図って歩んでいく

 

しかし

そのような考え方なら幸福が続けばいいが

運悪く不幸で苦痛の連続になった場合はどうしますか

 

そういったときは

悲観的な捉え方、考え方で何事も捉えようとしないだろうか

 

その幸福な人生に対する捉え方自体を変えてみよう

 

ここでヒントになるのが

古代ギリシャ哲学者アリストテレスの考え方

 

アリストテレスは「幸福」という言葉を

快楽を最大にして苦痛を最小にすることでは使っていない

 

「道徳的生活を目指すものが幸福であるなら

  快楽と苦痛をそれぞれ適正なものについて感じることだ

  もし闘犬を観戦して快楽を感じるならば

  それは克服すべき悪徳であり、幸福の真の源ではないと考えられる

  道徳的にすぐれた人は、快楽と苦痛を集計するものではなく

  それらを一つの線上に並べ   崇高なものを喜び

  卑劣なものを苦痛に感じるものなのだ

  幸福とは心の状態ではなく人間のあり方であり

  美徳に一致する魂の活動なのである」と述べている

 

自分なりの解釈で言えば

そのときに湧く感情(苦痛や快楽)に関係なく

自分が大切にしている価値観に沿った行動を維持できるかどうか

 

たとえば

自分の能力を向上させることを大切にしているなら

より少ない努力で向上しようと考えるのではなく

思い通りにならないときがあっても時間がかかってもあきらめないこと

思い通りになっても調子に乗らず

さらなる向上を目指すこと

 

或いは

日々を楽しむことが大切なであれば

人や自分の原因に関係なく

不快な感情で振り回されないようにすること

 

たとえば

人の目や声を気にして

それに合わそうとすればするほど不幸になる

 

といっても我を通すことでもなく

お互いがお互いを尊重できる関係性を維持すること

 

不都合で不快な状況でも

健全な心を維持して物事を捉えて適応していくこと

 

人間関係をつなぐ「信頼」も心豊かな幸福も

何より望む結果、姿、形以上に

そこまで至る紆余曲折のプロセスがあってのもの

 

プロセスは過去、現在、未来をつなげているものであり

望む結果は一時のものにフォーカスすることの違いを

よく考えてみよう

 

一時の結果で一生が保証されることはないことは

理解できることだろう

 

どんなに大きな財産を得たとしてもである

(この意味わかりますか)

 

私自身のひとつの考え方として

「プロセスなきもの脆弱この上ない」と思っている

 

つまり

プロセスなくして得たものは

いろんな意味において

失うことも、なくすことも早いということ

 

環境の変化に適応するために

必要不可欠な信頼関係の土台も築かれない

応用力、対応力、柔軟性が身につかないから

 

いちばんの問題は健全な心が育たないこと

 

そこに至るプロセスによって自分の心も育つもの

(あきらめない心、自制心などなど)

 

望む姿、形、結果の維持は

おそらくそう簡単に築けるものではないものだろう

 

それ相応に代償が必要であり

自分だけでどうにもならないことも多く

人の協力も必要だから

 

自分にとっての幸福な人生、正しい人生は

正しいことを選択していくことではなく

健全な心の維持に努め

人の協力を得ながら

「思考」錯誤と「試行」錯誤というプロセスによって

よりよい方向へ導き築かれるものだと思う

 

あなたは

プロセスを経た価値あるものありますか?

 

あるいは

築いていますか?