数字だけがすべてではない・・・?

統計分析力は苦手な人も多いだろうし

自身もその一人

 

それでも数字を見る力は

日常の問題解決にも

意思決定にも

物事、世の中の評価判断にも

大きな要素となり得る

 

ただ

「数字だけがすべてではない」

 

数字では理解できない見えない部分がある

 

例えば

人間は感情で行動するから

合理的に理屈通りに動くとは限らない

 

実際のその場の文脈も多様に変化する

 

そういう前提としてとらえておこう

 

ある本の一節

 

『数字の裏にある現実

 たとえば人々の生活を見せてくれるデータなら

 喜んで取り入れるということだけだ

 仮説を検証するためにデータは必要だが

 仮説をどこからひらめくかというと

 人と話したり、話を聞いたり、観察したりすることからだ

 世の中を理解するのに数字は欠かせないけれど

 数字いじりだけで引き出された結論は

 疑ってかかったほうがいい

 

 1994年から2004年まで

 モザンビークの首相を務めた

 パスコアル・モクンビは

 2002年にストックホルムを訪れ

 モザンビークが急激な経済発展を遂げていると教えてくれた

 

 どうしてそう断言できるのですかと尋ねてみた

 

 モザンビークの経済統計はあまりあてにならなかったからだ

 

 一人当たりのGDPがわかるんだろうか?

 

 「もちろん 数字は見ているよ」と首相は言う

 

 「でも 数字が間違っていることもある

 だから毎年メイデーのお祭りをしっかりと観察することにしたのさ

 モザンビーク最大のお祭りだからね

 

 市民の足元を見て

 どんな靴を履いているかを観察するんだ

 

 お祭りの日には

 みんなめかし込んで出かける

 

 友だちの靴を借りたりできない

 

 友だちもおしゃれしれして祭りに繰り出すからね

 

 だからいつもじっと足元を見てるんだ

 

 裸足か ボロ靴か

 それともいい靴を履いているか

 

 それで前の年と比べてみる

 

 国中を回るときにも建築現場を見る

 

 新しい土台に雑草が生えていたら

 よくないしるしだ

 

 どんどんレンガが積みあがっていたら

 カネを投資に回す余裕があるとわかる

 

 日々の暮らしに使う以上のカネがあるってことだ」

 

 賢い首相は数字も見るけれど

 それ以外のことも観察している

 

 人類の進歩の中でもいちばん価値のある大切なものは

 もちろん数字だけでは測れない

 

 病に苦しむ人の数は推測できる

 

 暮らしがどれほど豊になっているかも

 数字で図ることができる

 

 だが

 経済発展の最終的な目的は個人の自由だし

 それはなかなか数字で表せない

 

 人類の進歩を数字で表すという考え方そのものが変だと

 感じる人も多い

 

 わたしもそう思う

 

 この世の人生のすべての機微を数字に表わすことなんて

 絶対にできない

 

 数字がなければ世の中は理解できない

 でも数字だけでは世の中はわからない』

 

ここまででわかるとおり

前提をしっかりと理解しておこう

 

どれだけ国を動かす人が

こういう考え方のもとでやっているか

 

諮問会議内、専門家や官僚の話の信用性が

絶対的なものかということ

 

今の日本経済は

株高だけで

インフレ率だけで

マネタリーベースだけで

完全雇用率だけで

理解できるものですか

 

どれだけその地域の隅々(現場)を

実際に見聞き観察して

理解しようとしてますか

 

一部の良い部分(数字)だけが一人歩きしていることもある

 

あるいは

利害関係、保身や自分の実績のために

意図したものに誘導させられていることもある

 

国民の豊かさは一部の人で測るものではないのは

誰もがわかることだが

知らないことをいいことに

情報を握っている側の操作で

いくらでもどうにでもなるということ

 

しかも

すでに発信する側の信頼性が

担保されていることさえ利用している

 

もう一つ別のある本の一節

 

『やがて国の委員会が開かれ

 著者もその一部に参加していたが

 その時にはすでに学者の間のコンセンサスは形成されていた

 

 著者は

 「理論的にも、現実的にも分別リサイクルは

 資源の無駄使いになり

 結局リサイクルはできないから廃棄物貯蔵所の問題も起こる

 それに分別は時間的にも国民に負担を強いる」と頑張った

 

 その時

 休憩時間にトイレに行くと

 隣にいた東大教授が

 「先生 頑張らなくても良いのですよ

 どうせ ゴミを分別するのは主婦や老人ですし

 暇なんですから」と言った

 

 これには著者も開いた口がふさがらなかったが

 実は当時の国の中枢の考え方は

 「どうせ主婦と老人は暇」が前提だった

 

 また1990年代は

 「今まで浪費しすぎた 反省しなければ』という

 節約ムードが社会を覆っていた

 

 エコと言えば何でも通る社会だった

 

 それまで家電製品を「三種の神器」などと

 表現していたメディアも態度をくるっと変えて

 「消費は悪」と言い始めた

 

 そんな時

 大都市では全国のトップを切って

 名古屋が分別リサイクルを始めたので

 名古屋市は混乱した

 

 働いている主婦はどうにもならなくなり

 ゴミを捨てられないので

 一時的に冷蔵庫で保存したり

 捨てられないものをキャベツの葉にくるんで捨てた

 

 市民が苦しんでいるのが報道されたとき

 当時リサイクルに指導的立場をとっていた

 慶応大学の教授は新聞紙上で

 「市民は苦しめば良い 苦しまなければ消費の癖は直らない」という

 趣旨の発言をしている

 

 本当に分別リサイクルが資源を節約し

 環境を改善するなら

 まだこのような意見にも一理はあるが

 かえって資源を無駄使いするようなことを

 正義のように言うのだから

 ずいぶん奇妙な時代だったものである

 

 それに加えて

 行政とか学問というのは

 人間や国民がより幸福になることを目指しているもので

 「苦しんだほうが良い」などと言うなら

 市の行政サービスもやめたほうが良いともいえる』

 

どうですか

 

教授に対してどうこう言いたいわけではない

 

中枢だろうと

ミクロ(個人的な思想、EQが低い、ご自身の利益)のなかの話し合いで

マクロ(国全体の方向性、幸福)を決めてるということ

 

そういう前提を十分に理解したうえで

世の中、社会、経済、世界情勢、政治、外交などなど

教養に対して関心を持って

日頃から少しずつ自分で考えるなり

身近な人と共通認識を持っておこう

 

なんとなく情報をインプットすることから

自ら思考判断評価する意識で

情報をインプットできるように少しずつなっていこう

 

あなた自身と身近な人の

社会に対する意識を高めておこう

 

これも日常でできる社会貢献のひとつだと思っている

 

その前提としては

「健全な心」を保ったうえでの話

 

これがなければ

理性、意識を高めても社会はよくならない

 

自身も学んだなかで考え方を改めた

 

ただその学んだ前提が正しいかどうかも

さらに学ぶ必要もあるだろう

 

あなたは心穏やかにしてから

世の中や物事を捉えようとしていますか